NPO法人ぐるーぷ・ちえのわ|小雀史跡巡りマップ2024

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特設ページ:小雀町史跡巡りマップ 史跡の説明


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マップの載っている ちえのわだより第7号(2024年10月発行)PDF版

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@大塚(物見塚)



 大塚は戸塚区内に現存する塚のひとつで、形の整ったとても美しい塚で「物見塚」と言われている。塚には、他に江戸時代に造られた一里塚、供養塚、古墳などがあり、物見塚として知られているのは区内でこの大塚だけ。国土地理院の二等三角点になっている高台だ。(大正地区社協「おさんぽMAP」令和4年12月20日)より


A元五霊と五霊神社

元五霊(写真)
元五霊
五霊神社(写真)
五霊神社
小雀町の東端、田谷町字峯と字堤に接する地点、更に金井字辻の前にはさまれた小雀町字丸山の一角の山には、今でも元五霊という神社の跡地がある。
 これは小雀町に在る禅宗円覚寺派金龍山燈明寺の開山円仲省鏡が、明徳年間1390年に氏子の息災延命と五穀豊穣を祈る為に同寺正面の丘に五霊神社を創建したもので、明治6年11月、氏子の総意により俗に伊勢山と称する現在地が小雀村の中央且つ高台の所に伊勢大神を祀ってあったところへ社殿を移したので、旧地を今でも「もと五霊」と呼んでいる。
その鎮守の社殿は大正12年9月1日の関東大震災で倒壊し、早速再建された。境内が広いので、そこでよく村芝居の興行が行われた。
 昭和42年から小雀町では、神社社殿が大分損傷しているので将来の為に永久建造物として鉄筋コンクリート建てにしようと町内の相談がまとまり、町民にも多額寄付を要請し、昭和44年9月17日に完成祝賀の盛典が挙行された。坪数、内陣も結構の美を尽くし、屋根も銅板葺きとし、境内の一角に町内会館や社務所も併設され、美観と荘厳さに溢れた立派な五霊社となった。
 祭神は天照皇大神、天忍穂耳尊、天津彦瓊々杵尊、天津彦火々出見尊、鵜菖葺不合尊の5柱であるため五霊社と称している。場所は小雀町1193番地である。(「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.4.19資料より)


B六地蔵



 仏といえば石地蔵と思われるほどに、近世の石仏でもっとも多いのが地蔵である。中世の石地蔵は関西に多いが、近世では関東地方に地蔵が多くなる。大人から子どもまで、村人に親しまれた地蔵。古い形式は右手下
 掌は施無畏印をとる。僧形で左手に宝珠、右に錫杖をもつ姿は、地蔵信仰が民間に定着した室町後期から江戸時代にかけて普遍化していく。この形式は延命地蔵として冥界に行くものを救うとされた。幼くして死んだ童子の墓石に刻まれることも多い。いっぽう、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済のための六地蔵がある。六つの分身として彫刻される六地蔵の石仏は室町時代にはじまり、江戸時代には、じつにさまざまな形状につくられるようになった。延命地蔵には、丸彫り、舟形浮彫り、地蔵和讃のあるもの、墓石に彫られたものなどの基本形がある。六地蔵は種類が多いのが特徴で、別石六地蔵、舟形浮彫り六地蔵、六面六地蔵、一石六地蔵、一石二段六地蔵、一石三面六地蔵、舟形二段六地蔵、角柱六地蔵などがある。 (「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.4.19資料より)


C燈明寺

賓頭盧尊者様(びんずるそんじゃ)(写真)
賓頭盧尊者様(びんずるそんじゃ)
燈明寺(写真)
燈明寺
 燈明寺は臨済宗円覚寺派の寺院で金龍山燈明寺と称し、開山は円仲省鏡と云われ明徳年間=室町幕府足利義満の頃に創建されたと伝えられる。  拙家に蔵する長尾台の文書には「小田原北條の改易の節、山は家敷沿いの外は残らず代官持と相成り、徳川家康御入国後、長尾郷四ヶ村のうち金井田谷には山が少なく小雀は山付き、村には畠、御林多く有之、燈明寺と申す寺院へ田畑拾石余を山共に御領主より(杉浦)御附け遊ばされた」とある。領主杉浦の墓は燈明寺にあると云わるが同寺は関東大震災の時、山崩れで埋没し、その後、山の表側殿谷へ寺を移築したので墓地も判らなくなったものと考えられる。
 昭和39年頃小雀町の鎮守社裏から酉井戸、的場など広範囲にわたる土地改良で燈明寺も持山の土地改良区へ移転し、立派な寺院が村人の多分の寄進によって移築された。小雀町民は殆んどー村一箇寺である関係でこんな大事業も完成されたのであろう。土地は小雀町1160番地で、敷地も高台で見晴しよい場所である。
 下倉田の萬松寺、金井の玉泉寺と燈明寺は同じ円覚寺派の寺院で法類である関係上、寺で住職が事故在る時は随時に交代で葬儀佛事等の場合に勤められている。(「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.4.19資料より)


D小雀の殿様とその館

  1. 所在地:横浜市戸塚区小雀町1261 番地付近(鎌倉郡小雀村殿谷)
  2. 創築年代:天正18年(1590)頃
  3. 創建者:杉浦八郎五郎勝吉
  4. 形式:館
  5. 規模(山城の場合は標高と比高):標高40m、比高15m
  6. 関係主要文献:『新編相模国風土記稿』『皇国地誌』
杉浦八郎五郎勝吉の生まれは平良文流、三浦一族で鎌倉時代には「杉本」を称していた。
建暦3年(1213)の和田合戦で敗れた杉本八郎義国(和田義盛の子)は、近江国(滋賀県)に逃れ、杉本・三浦から一字を取り、杉浦と名乗って土着したといわれる。子孫杉浦八郎五郎吉貞の子勝吉は、弘治2年(1556)2月の日近の合戦から、徳川家康の旗本に属し、家康の関東入国以降は、小雀村において三百三十石を知行したという(燈明寺渡辺住職による)。小田原衆所領役帳によると、小雀の地は、後北条時代に間宮豊前守康俊が九十一貫二百十三文を領しており、小田原戦役の頃には、長尾城と同様に玉縄城の支城が構えられたと推定される。
現在でも、この付近に、的場、塚(物見塚)、大面(大表谷)などの地名や、堀切と考えられる地形も残っているが、遺構や伝承には具体的に位置を示すものがない。
また、ここの殿谷は杉浦八郎五郎勝吉の屋敷だとする伝承もある。勝吉は徳川幕府のもとで御弓頭をつとめ、慶長16年(1611)12月9日、小雀村で病死したが、養子勝次が後を継ぎ、子孫は幕末まで小雀村を領した(「徳川実記』)という。
現在、その伝承地は東海道の東側に位置するが、関東大農災の被害を受けており、遺構を知ることはできない。現在は山林と住宅地になっている。
(交通 東海道本線大船駅西口より戸塚バスセンター行きバス金井高校下車、徒歩10分)
「城郭総合辞典 千葉・神奈川の城郭」(監修児玉幸多・坪井清足 新人物往来社)
「日本城郭体系第6巻 千葉・神奈川」(昭和55年2月15日初版第1刷発行)より
(「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.5.24資料より)


E庚申塔(庚申塚)

神奈中バス 庚申塚バス停(写真)
神奈中バス 庚申塚バス停
大塚の庚申塔(1)(写真)
大塚の庚申塔(1)
大塚の庚申塔(2)(写真)
大塚の庚申塔(2)
人の体内にいる虫が、60日ごとに来る庚申の夜に天に昇ってその人の罪科を天帝に告げるため命を縮められるとする中国の教えから、庚申の夜は眠らずに言行を慎み健康長寿を祈念する信仰が行われた。室町時代には庚申待をする講が結ばれ、庚申塔造立が始まる。庚申待の行事や庚申塔造立の願いは人の延命招福にあるが、村の講中のものが徹夜で酒食をとることから、村民の連帯につながった。
江戸時代には、庚申塔は造形的に多様な類型をとって沖縄をのぞく全国各地で造立されることになった。路傍の石仏のなかでもっとも親しまれ、現在も庚申講が維持されているところもある。室町後期の庚申待板碑には阿弥陀を本尊とするものなどがつくられるが、江戸時代には悪疫を調伏する青面金剛や、道案内にかかわる猿田彦などを本尊とするようになった。青面金剛の神使である猿が彫られるのは、見ざる、聞かざる、言わざるという謹慎態度を示すためのようである。日月・鶏・邪鬼を彫刻するものもあり、それぞれ、日待月待信仰,魔性を圧伏する意味からきているものといわれている。(「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.4.19資料より)


F道祖神



サエノカミ、ドーロクジンなどといったり、塞大神(さえのおおかみ)、衢神(ちまたのかみ)、岐神(くなどのかみ)、道神(みちのかみ)などと記されたりもする。境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、緑結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において道祖神、塞神(さえのかみ)、道陸神(どうろくじん)などを別々の神として祀(まつ)っている所もあり、地域性が濃い。峠、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある。神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。
これらは地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人は峠や村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている。(出典:コトバンクHP日本大百科全書「道祖神」より一部抜粋)


G生駒家の弁天様(手斧窪の昔話)

はるかにとお〜い遠い昔のことであります。大塚の北の酉井戸谷には、大きな沼がありました。水を満々と湛えた沼のまわりには葦が生い茂り、沼の主の白い蛇が住んでいました。沼の主の白蛇は、広い沼の中をゆったりと泳ぎ回り時々背伸びをしてあたりを見回すのです。首をなが〜く伸ばし頭をもたげると目が鋭く光り、ちょうど大工が使う手斧のようで恐ろしい形相だったそうです。村人は白蛇の出るあたりを「手斧窪」と呼んで恐ろしがって近づかなくなりました。白蛇は人の気配がなくなると、益々、かま首をあげてあたりを見回すのです。人々は困りはてていました。この様子を見られた弁天様は白蛇の住む沼を小さくしようと堀や滝を造りました。沼の水は堀を流れて西へ、そして、手斧窪の北の方へ滝となって流れ落ちました。この滝が「堤の滝」といわれています。水はずんずん減り沼は小さくなりました。白蛇は天に駆け昇り箱根の芦ノ湖へ翔んでいきました。村人は安心しましたが、天空を翔び去って行った白蛇を憐れみ沼を見下ろす山の頂に化身の権現様を祀り崇めました。いつしか人々はこの山を権現山、小さくなった池を権現池と呼ぶようになりました。
昭和40年ころ、酉井戸の辺りは土地の区画整理が行われ沼も埋め立てられました。
庚申塚のバス停を東に50メートルほど進んだ丘の中腹に権現様、道路の南側の植木の植栽地内に弁天様が祀られています。
昭和11年1月25日、生駒植木(株)の初代生駒寅治氏は、荒れ果てていた権現様の境内を整え改祀されました。その時、江ノ島の弁天様の分身を沼のほとりに安置され合祀されたのでした。
そして、1月25日を権現様のまつり日と定められました。御当主の生駒恵一氏も先代・先先代の志や風儀を受け継ぎ、今も神事を執り行っておられます。(石川美代子著「小雀まち物語」 より)


H相の原大明神



昔ばなし その一

〈一つ墓〉

幼い頃、大塚台の山道を南西に進み東に下ると雑木林の片隅に小さな塚がありました。
〈考古.区内の塚〉によると、この辺りにも物見塚東二号があるらしいと記されていますが、この 小さい塚以外それらしきものは見当たりませんでした。
この塚の回りには雑草も少なく黒々とした地面が印象的でした。それに時々塚均しがされ新しい 卒塔婆が立てられました。〈お墓〉供養塚だったのです。
数十年余り前、父は〈一つ墓〉と呼び野の花を供えながらこんな話を聞かせてくれました。 この辺りがいくさ場であったむか〜し昔のはなしなんだ。
雨の降りしきるある夜、山戸谷の六衛門様の大戸を激しく叩く者がおったそうな。家人が、大戸 を開けると立派な鎧兜を身につけた血まみれの武将がひとり立っていたんだと。驚く家人に、
「主(あるじ)はおられるか」
呼ばれて戸口に出てきた六衛門様に、武将は息も絶え絶えに言ったそうだ。
「儂は、其方の家の裏山に斃れている。人目につかぬように葬ってくれまいか。願いを叶なえて もらえたら、儂もこの家の繁栄を末代までも守ろう…」と、
『葬れ』と言われるのなら、せめてお名前をお聞かせください」
「其方ごときに名乗るほどの者ではない」
でも、六衛門様は繰り返し名前を尋ねたそうな。
「葬ることはできても名前がなくてはこれから先、祀ることができませんから」
と、武将はようやく
「相ノ原………… とでも名付けよ」
と言うと、すう〜と姿が消えてしまったんだと。
翌朝、六衛門様が裏山を見まわると、この雑木林に昨夜戸口に訪れた武将が斃れていたんだそうだ。 あんまりにも不思議な出来事に驚き、約東通り人目につかないように密かに葬り小さな塚を造られ たのがこの墓なんだそうだ。そして、家族の者に、雑木林に葬った人もご先祖様と同じように大切 に祀り守るようにと申し伝えたのだそうだよ。
『そんなことがあってから、何百年も経っているのに な、六衛門様では代々この言い伝えを守り、 今も、このように墓を大事に守り祀っておられるんだよ。それからな、この墓の主の名前をいただ いてな、この谷戸を〈相ノ原〉と呼ぷようになったんだと』

昭和四十年代になり市水道局の導水路が雑木林の南を通りぬけ舗装道路が出来ました。小さな塚は 無くなりました。
〈一つ墓〉は、大衛門様の御当主、川辺房吉氏によって移葬されたのです。
一つ墓の主は《相ノ原大明神》と称され、川辺家の墓地で今も穏やかに眠っておられます。(石川美代子著「小雀まち物語」 より)


I清滝(堤の滝)

建久2年(1191年)頃の長尾郷小雀村は鶴岡八幡宮の所領であり、正和3年(1314年)には年貢の争いがあったことは郷土史にも書かれているが、当時小雀村権現山の麓には池が有り弁天様が祀られていた。その池の流水が堤谷戸へ流れ堤の滝(清滝)となり、信仰の厚い村人が木曽清滝不動明神の分身をお祀りしていた。当時滝は音を立てて流れ、修行僧や村人が滝に打たれて修行していたと伝えられほどであった。
関東大震災以後いつしか池もなくなり、滝には湧き水が流れる程度で昔の面影はなくなってしまった。(「小雀見どころ再発見」シリーズ 萩谷邦昭氏提供2022.4.19資料より)




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